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北海道アイヌ協会理事 結城幸司さんインタビュー

北海道アイヌ協会理事 結城幸司さんインタビュー

北海道東川町では、アイヌ民族をテーマにした映画「カムイのうた」を制作しています。MouLa HOKKAIDOでは、2023年秋の公開に先駆け、映画関係者やアイヌ文化に関わっている方々にお話を伺うプロジェクト「つながる、つづく、カムイの想い」を進行中。今回は北海道アイヌ協会理事の結城幸司さんに日頃の活動内容やアイヌ文化について詳しくお話を聞いてきました。

東京でアイヌ文化の価値を再確認する

編集部
今日はよろしくお願いします。結城さんは釧路市ご出身だと思うのですが、何歳まで釧路に住んでいたのですか?

結城
幼い頃両親が離婚したこともあり、おばあちゃんと2人で8歳くらいまで釧路に住んでいました。

編集部
お父さんはアイヌ解放運動の活動家、結城庄司さんですよね?

結城
はい、そうです。父は42歳(幸司さん19歳のとき)で他界したのですが、それまではアイヌ解放同盟の代表として活動していました。両親が離婚して、おばあちゃんと一緒に暮らしていたのですが、私が8歳くらいの時におばあちゃんが他界しまして、そのタイミングで神奈川の叔母の家で暮らすことになりました。

編集部
幼少期はどのようなタイプのお子さんだったのですか?

結城
絵を描くことが好きな子供でした。8歳から神奈川で暮らし、大人になったら東京でサラリーマンとして働き始めたのですが、本当はサラリーマンにならずに、ニューヨークのソーホーに行ってアーティストになろうと思っていました。当時、バスキアとかアンディ・ウォーホルが全盛の頃だったので憧れていました。お金をためたり渡米の準備をしていたのですが、思うようにお金が貯まらなかったり、また東京のアートシーンでも人脈が広がっていたこともあって結局ニューヨーク行きは諦めました。

編集部
ちなみに絵は独学ですか?

結城
はい、独学です。当時は主にアクリル画を描いていました。

編集部
どのような絵を描いていたのですか。

結城
いろんな絵を描いていましたよ。例えば「機関銃を撃っているのにたんぽぽを踏めない軍人」とか。

編集部
メッセージ性の強い作品を作っていたのですか?

結城
特に何か伝えたい思いがあって描いていたわけではないです。その絵を描いた時は戦争に対する漠然とした思いはありましたが、その思いを明確なメッセージに昇華して、一枚の絵で表現しようと考えていたわけではなく、その時々のインスピレーションをそのまま表現していました。


編集部
東京ではどのようなお仕事をされていたのですか?

結城
不動産の営業として10年くらい働いていました。バブル絶頂の時代だったので忙しく働いていたのですが、バブルが弾けた途端勤めていた会社が倒産してしまい、ある日突然仕事がなくなるという経験をしました。仕事を失った時に、いろんな啓発本やネイティブアメリカンに関する書籍を読み漁っていたのですが、それがきっかけで父の本も読むようになり、自然とアイヌ文化の価値を再確認するようになりました。

東京にいる時は自分がアイヌ民族であることを特に意識せずに暮らしていたのですが、本を読み漁っていた時に、幼少期におばあちゃんが聞かせてくれた神話や、ムックリ(口琴)やウポポ(座り歌) を聞いた時に感じていたことなどがフラッシュバックしました。それがきっかけで、東京在住のアイヌ民族が集まるアイヌ料理店に通うようになり、東京でアイヌ文化に関わる活動をすることになります。

編集部
自分の中のルーツに出会った感じですよね。それを機に北海道に戻ることを意識し始めたのですか?

結城
ちょうどその頃タイミング良く札幌でアイヌ民族の伝統的な船である板綴船(イタオマチプ)を作るプロジェクトがあって、知人から一緒にやろうと声をかけてもらいました。妻に相談したところ快く賛同してくれたので、家族で北海道へ戻ることを決めました。その時に集まったアイヌの仲間と一緒に、2000年に「アイヌアートプロジェクト」立ち上げることになります。

アイヌアートプロジェクト
2000 年に札幌で結成されたアイヌの創作集団。音楽・踊り・手仕事などの伝統的文化の継承にとどまらず、現代的な手法を取り入れながら「アイヌの世界」を広く表現している。アイヌの伝統的な楽器、トンコリやムックリにギターやベース等を加え、自然との共生などテーマを持った曲をアイヌ語と日本語で歌い演奏している。

伝統だけでイメージを固定化させない

編集部
北海道に戻ってからはどのようなお仕事をしていたのですか?

結城
札幌の機動職業訓練に参加して、アイヌの木彫や刺繍を学びました。そこで学んだ木彫の技術と、自分が今まで描いてきた絵のスキルを活かして、現在の木版画のスタイルになりました。私にとって絵を描くことは子供の頃から心の安定剤みたいな存在。絵を描いていると気持ちも落ち着くし、気がついたら何時間も作業に没頭しているので、今の仕事は天職なのかもしれません。

編集部
アイヌ伝統文化にも興味が深かったのでしょうか?

結城
もちろん、絵に限らず木彫も、刺繍も、歌も、全て好きです。ただ私の作品作りの背景として、アイヌ伝統工芸が好きだからやっているというよりは、子供の頃おばあちゃんから聞いていた神話の世界が大好きで、神話を聞くと自分の頭にイマジネーションが湧き上がってくるので、これを絵にしないのは勿体ないと思うようになり作品を作り続けています。知里幸恵さんの「アイヌ神謡集」が持つ世界観もすごく好きで、今後自分なりの解釈でその世界観を表現してみたいなと考えています。

編集部
アイヌ文化の伝統的な表現をそのまま作るのではなくて、伝統を守りながらもご自身のイマジネーションと融合させながら作品を作られているのですね。ちなみに、木版画以外には、どのような活動をされているのでしょうか?

結城
たまに木彫もやりますし、小学校や大学から講話の依頼を受けることもあります。また仕事と並行して先ほどお話しした「アイヌアートプロジェクト」の活動もしています。

編集部
コロナの影響で活動に影響はありましたか?

結城
一番影響があったのは、展示会が縮小したことですね。しかし、最近では展示会の機会も増えてきました。展示会が増えることで、自分の作品の世界観を理解していただける方が少しずつ増えてきています。

編集部
展示会はどこで開催されているのですか?

結城
毎年札幌大丸さんで少し規模の大きめな展示会をやっています。展示会ではないですが洞爺湖の鶴雅さんのホテルでも大きな版画を2点置いてもらっています。

編集部
結城さんは歌も歌われていますよね。

結城
伝統だけで自分たちのイメージを固定化させたくないのです。例えばアイヌ音楽でギターを使うイメージってないと思うのですが、今の時代に生きていれば様々な楽器を使って当然ですし普通なことだと思うのです。その思いを伝えたくて、自分のグループでもある「アイヌアートプロジェクト」でロックバンドとしても活動しています。


編集部
オリジナルの楽曲を歌っているのですか?

結城
アイヌの伝統曲を現代風にアレンジして日本語の歌詞をのせています。アイヌ文化×ロックの組み合わせは最初は違和感でしかなかったと思うのですが、最近は多くの方がアイヌ文化に興味を持ってくれるようになり、少しずつ受け入れられるようになってきたと思います。継続は力なりですね。

編集部
伝統と新しい文化を融合させるスタイルって、お父さんの時代にはなかったですよね?

結城
父の時代にも、砂澤ビッキさんのように、伝統とは別な手法で、現代アート的なことをやられてる方もいましたし、いつの時代もある姿だと思います。アイヌ民族の大元の精神を、現代のアートで表現する人はいつの時代もいたのではないでしょうか。そのような音楽やアート活動をしている人も私は「語り部」だと思っています。長い時代、ずっと語り部は途切れたことがないですし、今後も姿は変われども、アイヌ文化の語り部は続いていくと思います。

アートだから伝えられること

結城
これは私の代表作である「ユク 眼差し」という作品です。知床で出会ったとても大きな鹿をモチーフにした木版画です。


八剣山ギャラリー公式サイトより引用

結城
知床で散歩をしていた時に森の中で出会った鹿です。今まで何度も鹿は見ていますが、こんな大きな鹿は見たことがなくて発見した時はとても驚きました。そしてこの鹿も緊張してこちらを見ている。僕が一歩でも鹿に近づいたらこの鹿は逃げていく距離感。そして、この時のこの鹿の目線が「お前は一体この土地に何をしにきたんだ!」と言われているように感じたのです。

編集部
鹿の立場だときっとそう思っていますよね。笑

結城
熊出没注意って看板がありますけど、鹿にとっては「人間出没注意」ですよね。笑
人間の立場でアイヌ文化を伝えるだけではなく、鹿の視点でアイヌ文化を語ることも、表現者としての役割ではないかな?と考えています。

編集部
まさにアートだからできる手法ですね。


アイヌ文化伝承に必要なこと

結城
私は学校で講話をしたり、アイヌ文化のガイドもやっているのですが、その活動を続けながら改めてアイヌ文化についていろんなことを考えるようになりました。

編集部
アイヌ文化を伝承するためには「何が必要なのか?」ということですか?

結城
そうです。例えば、私の父は否定されていくアイヌ文化に対して、アイヌ側に立って戦っていたのですが、その息子である私が同じことをしても意味がないと感じています。これは知里幸恵さんの影響もあると思うのですが、つまり「間に入る」ということがとても重要だと考えています。

編集部
間に入る?とは??

結城
アイヌ民族は差別されて辛い思いもたくさんしてきたけど、そこだけクローズアップして伝えるのではなく、アイヌ民族は長い間、北海道の大地の恵みをいただき同時に感謝する心を大切にすることで、そこから自分たちの文化が生まれたので、その素晴らしさも同時に伝える必要があります。

アイヌ語に関していうと、アイヌ語の意味をそのまま日本語に訳しても本当の意味は伝わらないと思うのですが、知里幸恵さんはアイヌ語と日本語の両方の意味を踏まえながら翻訳した。その翻訳能力が素晴らしいからこそ、今でも多くの人から共感されているのだと思います。

編集部
物事って、ひとつの側面からしか伝わらないことが多いですが、そうではなく、時代に合わせた解釈も交えながら、伝統的なアイヌ文化を今の人たちにも理解しやすいように橋渡しする役割が大切になるということですよね。


結城
アイヌ文化ってやはりすごいなと思います。アイヌ民族にとって狩りをすることも、獲った獲物を食べることも普通の日常ですよね。でもそんな日常の中から神話まで生まれているわけです。「食べる」ということだけでも、敬意があり、畏怖があるわけで、アイヌ文化の素晴らしさはそこにあると思います。

編集部
日常の中にこそ、生きることの本質的な価値を見出すことができる。ともすると私たちは、特別な価値というものは、何か特別なコトにしか潜んでいないと思いがちです。でも、大切なことは、実は日常の中に溢れているわけですよね。これは私たちが生きていく上で大切にすべき考え方ですよね。

結城
あと、知里幸恵さんが残してくれた「アイヌ神謡集」の序章の中で「いつかは、二人三人でも強いものが出て來たら、進みゆく世と歩をならべる日も、やがては來ませう。」と表現されています。決して上にいるとか、勝ち負けではなく、日本の文化と肩を並べて一緒に歩むと言うこの一節が私の中にはずっとあります。これが全てというか、この思いを継承することが必要だと思います。

私も神謡の語りをすることがあって、オオカミの語りをするのですが、オオカミって僕らの世代ではみたことがないですよね。ではそのカムイを滅ぼしたのは誰なのか?というメッセージを最後につけるんです。それは僕ら人間なんだと。今で言うと熊が里村に出てきたとニュースになりますが、その熊も絶命していなくなってしまうような無個性な大地を作ることが人間の望みではなくて、どんな命も生き続けられる豊さを持つことが素晴らしい。そう思います。

今回の映画「カムイのうた」は知里幸恵さんがモデルになっているということなのでとても期待しています。この映画を見ることで、知里幸恵さんの生涯を通して、アイヌ民族の苦悩が伝わると思いますし、それが伝わることで、今後いろんな可能性が広がると思います。その先にはきっと素晴らしい世界が待っていると期待しています。

今後の目標について

結城
現在、北海道アイヌ協会の理事をやってます。そもそも私は理事を務めるようなタイプではないのですが、ではなぜやっているかというと、一つは、現代を生きる私たちが超えなければならないことがたくさんあるような気がしていて、そのためにやっています。例えばアイヌ民族は先住民であると認められはいますが、先住権はありません。海外の先住民のように自治区のような土地を与えられたわけでもない。

編集部
確かにそうですね。

結城
私が理事でいる間に、議会を提案したいのです。同じような例が北欧にあって、サーミの人たちが政治的な要求をするための基本的な基盤として「サーミ議会」があります。同じように、アイヌ民族でも議会を持って、そこで自分たちの考えをまとめたり、要求できる基盤が整備できればもっとアイヌ文化伝承は進むと思います。私一人ではそんな力はないですが、こんなことを考えていた人がいたなと思ってもらえるくらいは頑張りたいと思っています。

編集部
結城さんの中では使命感に近い思いですよね。

結城
父の影響や憧れもあると思います。きっと父もこうしたかったと思いますし。本当はアーティストとしてアート活動に専念する選択肢もありますし、そうしたいと思う反面、アイヌ民族のために何かしては!という使命感があるのも事実です。だから叶うか否かは別として、思ったことはしっかりと伝えていきたいと思います。

編集部
本日はお忙しい中貴重なお話をたくさんありがとうございました。


この記事を書いたモウラー

編集部

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