北海道新聞デジタル2023年10月3日(火)に 映画「カムイのうた」に関する記事が掲載されました。
―私たちを知って下さる多くの方に読んでいただく事が出来ますならば、私は、私たちの同族祖先と共にほんとうに無限の喜び、無上の幸福に存じます(アイヌ神謡集序文より)―
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大正期のアイヌ文化伝承者、知里幸恵(1903~22年)の生誕120年と著書「アイヌ神謡集」出版100年を迎えた今年、知里の生涯を描いた映画「カムイのうた」が上川管内東川町の製作協力で完成した。11月23日から道内各地で公開され、来年1月から全国で上映される。(旭川報道部 和泉優大)
映画「ぼくらの七日間戦争」などで知られる菅原浩志さん(68)=札幌市出身=が監督を務め、昨年7月から東川や旭川をはじめ、札幌、小樽など道内各地でロケが行われた。東川と札幌のオーディションで出演者を集め、地元ボランティアが美術や小道具製作に参加した。
知里をモデルにした主人公テルを演じたのは、俳優の吉田美月喜(みづき)さん(20)。撮影時は知里が亡くなったのと同じ19歳だった。
東京都出身でアイヌ文化や知里のことを深く知らなかったが、出演が決まってからは登別市の「知里幸恵 銀のしずく記念館」に足を運び、都内のアイヌ料理店で伝統楽器ムックリを練習して、役作りをした。
知里について「強い女性だけど、恋もするなど19歳の女の子らしさもあり、身近に感じました。こんな人が当時を生きたことをさらに多くの人に知ってほしい」と語った。
菅原監督が本作でこだわったのは「本物」に迫ることだ。知里の日記や手紙、関連書籍はほぼ全て読み、アイヌ民族の歴史は幕末の探検家松浦武四郎が残した文献までさかのぼって調べた。衣装も明治・大正期の写真をもとに考証し再現。アイヌ文化研究家の北海学園大の藤村久和名誉教授(83)がアイヌ語や風習について監修した。
ユカㇻ(英雄叙事詩)やアイヌ語の方言は、アイヌ民族の文化伝承者が録音に協力し、俳優の演技指導に使われた。主人公の叔母イヌイェマツを演じた俳優の島田歌穂さん(60)はこの録音を繰り返し聞いてオリジナルの楽譜を作り、役に挑んだ。
撮影時、生の歌声でユカㇻやカムイユカㇻ(神謡)を披露した島田さんは「アイヌ語に込められた意味と、それを芝居としてどう伝えるかを考え抜き、自分なりに歌うことができた」と力を込める。
もう一つ、菅原監督がこだわったのは、アイヌ民族が受けた差別と迫害の歴史を正面から描くことだ。主人公テルは、職業学校の同級生に「アイヌが来るところじゃない」と陰口をたたかれ、愛用のムックリをへし折られる。目を背けたくなるようなシーンが続く。
明治期、北海道には道外から大勢の和人が移住し、当時の政府による土地の官有化や狩猟・漁労の禁止によって、アイヌ民族は生活の糧を奪われ、困窮した生活を強いられた。
映画では、アイヌ語を禁じた土人学校、和人による漁場での強制労働、研究のために墓地から遺骨が盗掘されるなど、アイヌ民族がたどった悲惨な歴史を克明に描いた。
菅原監督は「和人が過去、アイヌ民族に対してどんな仕打ちをしてきたのか、私たちはその歴史と向き合わなければならない」と強調。その上で映画を通して「アイヌ民族がアイヌであることを誇りに思い、未来への希望を持ってほしい」と語った。
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本作では旭川のアイヌ民族も明治・大正を生きたアイヌを演じている。
旭川市の太田奈奈さん(70)は、アイヌ口承文学の伝承者、杉村キナラブックさん(1888~1973年)の孫にあたる。川村カ子トアイヌ記念館の川村久恵副館長(52)の提案で集落のフチ(おばあさん)を演じた。女性が口元にする伝統的な入れ墨のメークをして「鏡を見たらババにそっくりだった」。
試写会の時はアイヌ民族が虐げられ、苦難を強いられる場面に耐えきれず席を立った。幼少期に受けた差別、研究者による長時間のユカㇻ収録を中断できず苦しそうな祖母、神居古潭(旭川)の石狩川で木材運搬の作業中に流された祖父…。辛い記憶が次々よみがえり、涙を流した。
太田さんは月2回ほど、市内の施設でゴザやカゴといった伝統工芸の織物を教えている。織物が得意な祖母は「おまえはアイヌになるな」と教えてくれなかったが、太田さんは「アイヌはアイヌ。和人としては生きられない。それに織物はやっぱり好きだ」と、40代の頃、母に教わり始めた。
今月から刀を下げるために使うひも作りの技法を応用したキーホルダー作りのレッスンも始める。祖母が口にしていたアイヌ語を忘れないよう、普段から意識的に話すようにしている。「自分は伝承をやり遂げていない。映画を見て悔しかったけどやってやる」
真冬の海岸で過酷なニシン漁に従事させられるアイヌ民族の労働者を演じたのは、旭川市の設備工事業荒城秀成さん(54)。出演者の募集を知った妻の昌子さん(55)に勧められ、昨年4月に東川で開かれたオーディションに参加した。菅原浩志監督から「本物の映像を作りたいので、ぜひ出てほしい」とその場で合格を伝えられた。
10カ月間、工事の現場に出る機会を減らして髪とひげを伸ばし、今年1月下旬の石狩市浜益の海岸で撮影に臨んだ。猛吹雪と氷点下20度以下の極寒の中、薄い布を数枚重ね着した衣装で、計40キロ近いもっことニシンを背負って歩いた。
荒城さんも小学生のころから差別に遭った。入学式の日、ランドセルとともに学校の中庭に投げ捨てられた教科書には小便がかけられていた。ボクシングを始めていじめられることは減ったが、6~7年ほど前にも札幌の居酒屋で見知らぬ客に差別的な言葉を浴びせられた
荒城さんは「良い映画で感動もしたけど、現実はそんなもんじゃない」と話す。一方で「いろいろあったが自分は明るさで乗り越えた。アイヌであることを誇りに思うし、スクリーンにも映れた」と語る。
製作に協力した川村副館長は「今もアイヌは社会でどう生きるか葛藤を抱えている。差別に関する表現は意見が分かれると思う。差別という問題、アイヌに対する迫害について、和人に見て考えてほしい」と話す。