【札幌の奥座敷】定山渓は定山さんが作った!?定山渓温泉の歴史
ブラサトルこと和田哲さんは、札幌を中心に北海道の地理・歴史が大好きな"街歩き研究家"。
NHKのテレビ番組「ブラタモリ」の札幌編に案内人として登場したあの方といえば、お分かりの方も多いのでは?
MouLa HOKKAIDOでは、ステレオタイプではない道内各地の情報を発信してくれる仲間として、特集記事のひとつ"もうらの村"に和田さんを"村びと"のひとりとしてお招きしました。
彼のYouTubeチャンネル「ブラサトルチャンネル」の中から、人気のあるコンテンツをダイジェストでいくつかご紹介していくシリーズ、今回は「【決定版】定山渓温泉の歴史」をピックアップ!
定山渓の歴史
定山渓温泉の存在は、実は古くから知られていて、アイヌの方々が湯治に訪れていました。
和人として初めて訪れたのが探検家として、北海道の名付け親として知られる松浦武四郎。
これが江戸時代、1858(安政5)年におそらくアイヌの方の案内でのことだそうです。
それから8年後の1866(慶応2)年、親しいアイヌの方から「いい温泉があるよ」と教わったのが美泉定山という僧侶。当時すでに61歳だった彼は小樽・張碓に住んでいましたが、浅里峠を超え定山渓へ抜けるルートを、当時の道なき山中を徒歩で向かったのです。
湯治場を作ろうと決意した美泉定山
こんこんと湧く自然の温泉に魅了された美泉定山は、ここに誰でも入ることのできる湯治場を作ることを決めます。ところが、道なき場所に誰も辿り着けないという大きな問題がありました。明治に入り、本願寺道路(現在の国道230号の基となる道路)ができ、なんとか人が来られるようになりました。
このときに定山渓という地名が誕生しました。
当時の北海道開拓使長官が、湯治場を建てた定山和尚を称えて、定山渓という地名とすることを許したそうなのです。
今もまだ残る本願寺道路
前述の通り、現在の国道230号の基となる道路だった本願寺道路、実は今もまだ名残があります。
それは簾舞中学校の裏側にあり、東本願寺が切り開いた当時のままの道の姿なんです。
こんな道が定山渓〜中山峠まで切り拓かれ続いていましたが、徒歩でしか通れない道でした。ここが馬車も通れる産業用道路となるのは1886(明治19)年以降のこと。これは今でも旧道として残っています。
大正時代の定山渓
大正時代に入って橋ができ、宿屋ができ、定山渓は本格的な温泉地となっていきました。
そして、さらに多くの人たちが訪れやすくなる交通インフラが整い始めます。それは石山までの馬車鉄道の開通でした。
石山軟石が採掘されていたので、それらを運ぶ馬車鉄道が、今の石山通に引かれていたのです。
これが、その後、街の中心部から石山まで人を乗せて運ぶようになります。まだ石山から定山渓までは徒歩ではありましたが、これによって以前よりは格段に行きやすくなりました。
上の写真は当時の南1条を走る馬車鉄道の様子。
右に見える「富貴堂」の看板の場所が現在の「札幌パルコ」、その数軒挟んだ左側が現在の「大丸藤井セントラル」です。
その後、馬車鉄道は定山渓まで延伸する予定がありましたが実現はせず、1918(大正7)年に、市内中心部から定山渓を結ぶ定山渓鉄道という私鉄が開通します。
これは1969(昭和44)年まで運行していました。また、鉄道の廃止後は、札幌市民であればおなじみであろう「じょうてつ」として、バス・不動産事業を行う会社として現存しています。
発展する定山渓
定山渓鉄道により交通インフラが整った定山渓を訪れる人たちは爆発的に増えました。
1945(昭和20)年以降の戦後になると、団体旅行も増えていきます。これに伴って旅館も大型化していきました。
下の写真は1960(昭和35)年頃のもの。
近代的なビル化した建物と、昔ながらの旅館が混在した様子がうかがえます。
まだまだ続く「定山渓温泉の歴史」!!
YouTubeチャンネル「ブラサトルチャンネル」では、このあとも昭和中期から現在に至るまで続きます。
気になる方はぜひ動画でチェックしてみてください!