【札幌】「北海道神宮」は「○○神社」だった!? あの巨大鳥居の謎に迫る
ブラサトルこと和田哲さんは、札幌を中心に北海道の地理・歴史が大好きな"街歩き研究家"。
NHKのテレビ番組「ブラタモリ」の札幌編に案内人として登場したあの方といえば、お分かりの方も多いのでは?
MouLa HOKKAIDOでは、ステレオタイプではない道内各地の情報を発信してくれる仲間として、特集記事のひとつ"もうらの村"に和田さんを"村びと"のひとりとしてお招きしました。
和田さんのYouTubeチャンネル「ブラサトルチャンネル」の中から、人気のコンテンツをダイジェストでご紹介していくシリーズ、今回は「【決定版】北海道神宮の歴史」をピックアップ!
北海道神宮の歴史
今回は北海道神宮(札幌市中央区宮ケ丘)についてご紹介したいと思います。
北海道神宮は元々「官幣大社(かんぺいたいしゃ)」と言いました。国がお祀りする大きな神社ということですね。
日本の神社には民間の信仰から生まれた神社が多く、例えば海だったら海の神様、農業だったら収穫の神様というように古くから民間で祀られていたものを祠にしています。
それ対して官幣大社や官幣中社というのは、国が神様を決めてお祀りした「国立の神社」を指します。もちろん、今は宗教と政治は切り離されていますが、昔は国(政府の神祇官)が神様を決めていたのです。
函館から札幌へ
北海道神宮の始まりも開拓使を設置する際に、神祇官が「では、この神様を祀りなさい」と開拓三神という神様を定めました。一柱、二柱と数えますが、「大国魂神(おおくにたまのかみ)」「大那牟遅神(おおなむちのかみ)」「少彦名神(すくなひこなのかみ)」の三柱の神様です。
もともと開拓使の本拠地は箱館(函館)にありましたが、奥地の方へ開拓を進めるために札幌へ移します。その開拓使の判官として札幌に派遣されたのが佐賀藩の侍だった島義勇(しまよしたけ)です。島義勇が開拓三神の御霊代(みたましろ)を背負って札幌にやってきたのです。
「素晴らしい」 島も直感
最初は、今でいう街の中に仮のお宮を作って安置します。そして、本格的な神社をどこに建てるべきか、ある人物に相談します。
当時、すでに札幌には農業をするために住み着いている人たちがいました。もちろん和人だけでなく、アイヌの人もたくさん暮らしていました。和人が入植していたのは篠路や今の東区の辺り。
その中で篠路村に住んでいた早山清太郎(そうやませいたろう)という人物が札幌周辺の地理に詳しく、何よりも開拓三神を敬う強い気持ちを持っていました。
島義勇が社地の選定について早山清太郎に相談したところ、円山を薦めるんですね。おそらく自然の地形的に良い土地だったからでしょう。実際に案内された島義勇も周囲が山に囲まれて一面だけがこの平野に向かって開けている地形を見て「とても素晴らしい場所だ」と直感しました。
わずか3ヶ月で… 悲劇の運命
でも、島義勇は神宮を作ることなく佐賀県に帰ってしまいます。札幌に来てわずか3ヶ月で解任されてしまうんですね。街づくりの構想などは残すのですが、実際に手をつける前に解任となります。
そして佐賀に帰ると、士族が立ち上がり、新政府に反乱を起こす「佐賀の乱」という事件に巻き込まれ、罪人として打ち首になってしまいます。
小さな神社の“誕生” そして“改名”
その後、島義勇から引き継いだ人たちによって円山に新しい神社が作られました。
これがその最初の建物になります。今の北海道神宮と比べて、とても小さいですよね。場所は今と同じですが、名前は「札幌神社」。
現在の「北海道神宮」という名になったのは、戦後どころか実は昭和39年(1964)、東京オリンピックの年。それまでは札幌神社でした。
今でもおじいさん、おばあさん世代の方は札幌神社と言う方が多いと思います。
お祭りが「札幌まつり」というのもその頃の名残です。「札幌神社のおまつり」だから「札幌まつり」なんですよね。
これが明治4年(1871)に神社が作られた当時の参道です。本当に寂しいですよね。
今は春になると道の両側に桜が咲き誇りますが、あの立派な桜並木も最初は何もない状態だったのです。
なぜ、こんな所に大鳥居?
さて、北海道神宮といえば道路をまたぐ大きな鳥居(中央区北1西25)をご存知でしょうか。神宮からは近いものの、なぜこんな所に鳥居があるでしょうか?
明治初期の地図がこちらです。
南1条通が途中でL字に曲がっています。そして、北へ向かうんですよね。これが西25丁目通です。南1条からカクって曲がるこの西25丁目通こそが、小樽の銭函に向かう札幌で一番重要な街道「銭函街道」なのです。
この街道の途中から札幌神社への参道が分かれています。それ以外の道がなかったので、ここに鳥居があるんです。
今は「何でこんな中途半端な場所に…」と思うかもしれませんが、昔はちゃんと参道の入口だったんですよね。北1条通が、ずっと街まで貫通するのは大正時代の話になります。
まだまだ続く「北海道神宮の歴史」
YouTubeチャンネル「ブラサトルチャンネル」では、このあとも「桜が植えられた理由」「北海道神宮の参道 北東向きロシア説」などに迫っていきます。
気になる方はぜひ動画をチェックしてみてください!