「盛り場は学校、雑誌は町内会報」創刊20周年を迎える札幌のタウン誌『O.tone』編集長が語る、街と紙媒体

「盛り場は学校、雑誌は町内会報」創刊20周年を迎える札幌のタウン誌『O.tone』編集長が語る、街と紙媒体

主に文化的な側面から北海道に寄与しているひと、新しい流れをつくっているひとたちの熱量や想いを可視化するMouLa HOKKAIDOの新たなコンテンツ「NORTHERN SHAPERS-北をかたちづくるひと-」。この「ひと」にフォーカスした新連載の記念すべき1回目は、今年2026年に創刊20周年という大きな節目を迎える札幌のタウン情報誌『O.tone(オトン)』の編集長であり、株式会社あるた出版の代表を務める平野たまみさん。

バブル前夜の「すすきの」で雑誌づくりのすべてを叩き込まれ、メディアの激変期を生き抜いてきた平野さん。ネットで無料の情報が溢れる現代において、なぜ『O.tone』は今もなお札幌の大人たちに愛され続けるのか。彼女の編集者としての原点、そして変わりゆく札幌の街への切なる願いに迫りました。

企画・編集|阿部薫(MouLa HOKKAIDO編集長)


すべてをひとりでこなした原点「ライター業務だけだったら潰しがきかなかったかも」

―まずは平野さんの編集者としての原点からうかがいます。キャリアのスタートとなった『旅と味』や『ステージガイド』『さっぽろタウン情報』といったタウン誌が活躍していた当時、札幌の出版業界はどのような状況でしたか。

平野たまみ(以下、平野): 当時1980年代初めの札幌は、全国的に見てもタウン誌をはじめとする紙媒体がものすごく多い街だったんですよ。私が最初に入った『旅と味』は、今でいうフリーペーパーになるのかな。飲食店や土産店から加盟店料をいただいて、それを元手にしてお店の宣伝だけでなく、北海道という街の魅力を伝える冊子をつくって加盟店に置いてもらう月刊誌だった。

そこへ入社してすぐに「取材へ行ってこい」と言われたのが始まりで。誰も何も教えてくれないから、自分でお店に行って取材をして書いたものを編集長に見せたら、すごく褒められて。「なんて楽しい仕事なんだろう!」と思ったのが原点ですね。

当時の札幌のタウン誌1971(昭和46)年、札幌初の情報誌として「ステージガイド」が創刊、1974(昭和49)年には「さっぽろタウン情報」、1985(昭和60)年に「イエローページ」が創刊された。 

そこが平野さんの編集者としてのスタートなわけですね。

平野: でも、取材して書くだけでは事業として成り立たないわけです。『旅と味』の場合は、どうやって加盟店や広告を増やすかも考えたほうがいいよと。外から見ると編集部=編集者って思うだろうけど、当時はどこのタウン誌もはっきりと分業じゃなかったはずで、カメラマンも使えないから自分でカメラを覚えて撮影して取材して営業もする。

今になって思えば、ライター業務だけだったら潰しがきかなかったと思う。あの時に「編集・撮影・営業」のすべてを経験できたことは本当に貴重だった。


バブル前夜のすすきのと『すきタン』のシフトチェンジ

―その後、1983年に25歳で『すすきのタウン情報(以下、すきタン)』へ移籍したんですよね。

平野:創刊時(1979年)の『すきタン』は、すすきので働く人たちに向けた業界誌のような内容で、税金対策や反社対策といった記事がメインでした。私が入った頃は、すすきのに遊びに来る人向けな内容に変わっていく時期だった。

時代はバブルに向かって景気が右肩上がりになり、盛り場といえば、まだすすきのしか無かった頃。夜になると煌々と灯りがつく盛り場に吸い寄せられるように人が集まる。盛り場って経済状況が如実に反映される場所だから、古いビルが壊され、新しいビルもどんどん建ち始めてた。

―そのあたりを契機に『すきタン』が業界誌からタウン誌にシフトしていくと…

平野:『すきタン』に移って2年後くらいに、発行元の会社が倒産してしまったんです。私は「この雑誌は絶対にいける、無くすのはもったいない!」と思って、当時編集長だった山崎さんに「独立して我々でやりましょう!」と言ったわけ。でも彼は借金を背負ってまではやりたくないって。

「うちで買い取るから一緒にやらないか?」と言ってくれた会社もあったけど、私は編集者としての山崎さんを尊敬してたので一緒じゃなきゃやらないと決めてた。結果的に彼を説得して、会社から『すきタン』を買い取ることになり、2人で会社を設立しました。取引先への未払い金も込みでね。

―負債も込みですか?!どうやってお金を工面したんですか?

平野:銀行はお金を貸してくれないし、未払いも当初聞いてた額よりもあったりして(苦笑)…そこで、借金じゃなく出資をしてもらおうとなって、友人や取引のあった会社とかの伝手を頼って500万円ほど集めました。

山崎さんは優秀な編集者だけど、お金の勘定はまったくだから(笑)…「私がやるしかない!」と必死だった。同じくらいの時期じゃないかな、それまでのすすきのは女性や若い子が気軽に行く場所ではなかったけれど、カフェバーブームがあって、おしゃれをしてワインを飲むような場所も増えていった。

―その独立が1985年6月とのことなので、まさに“バブル前夜”。タウン誌としての『すきタン』はどういったものだったんですか?

平野:先述の『ステージガイド』『さっぽろタウン情報』がある中で、『すきタン』は、名前の通りすすきのというエリアに特化しました。当時のすすきのを象徴してたのが『日劇ビル』―焼肉屋があって、喫茶店があって、クラブやスナックがあって、風俗店まで入ったすべてがごった煮状態―そんなすすきのの情報にフォーカスしたんです。

ネットが無い時代だから、お店を宣伝するならタウン誌。とにかく広告を出稿してくれるお店は多かった。

―世の中の流れ的にも、独立された時点で順調だったんじゃないですか?

平野:独立してからの2年くらいは綱渡り状態で、とにかく必死に働いた。24時前に帰れたことがなかったです。日中は取材や編集作業をして、スタッフが帰った後に営業の電話をかけて、夜中に請求書をつくるみたいな。

でも、やった分だけ目に見えて成果が出たから、ほとんど寝なくてもいいやって。仕事終わってご飯食べにすすきのに繰り出して、朝に家帰ってまた会社に行くみたいな感じでしたね。

ライバルの出現とガラケーの台頭―変わりゆく情報誌の価値

―昭和〜平成の初め、やった分だけ結果が出れば、そりゃあがんばりますよね。

平野: 創業時に出資してくれた株主さんたちにも毎年配当を出せたし、5年くらいで借金も完済してここからって時にバブル景気が弾けるわけ。でも、すぐに景気が悪くなったわけじゃなくて、北海道に関して言えば、1997年の北海道拓殖銀行の経営破綻からだと思う。バブル崩壊って言われてから5〜6年後くらいかな。道内の大企業も倒産したりして、すすきのもちょっと閑散とし始めたんだけれど、若者向けのお店はそうでもなかったかな。

そんな景気が冷え込み始めるちょっと前に『サンロクマル』が出てくるわけです。

北海道拓殖銀行:道民の間では「たくぎん」と呼ばれていた、北海道を地盤とする唯一の都市銀行。バブル期の拡大路線により不良債権を多く抱え1997年に経営破綻。事業は北洋銀行等に引き継がれた。

サンロクマル:現在の『ホットペッパー』の前身として、1994年にリクルートが創刊したエリア密着型のクーポン付きのフリーマガジン。北海道・札幌エリアを起点に実験的にスタートし、その後、全国13エリアへ展開された。

―飲食店情報のフリーペーパーですね。

平野:大手のリクルートが発行する圧倒的な部数とボリューム、そしてお得なクーポン付き。『すきタン』は当時500円で売っていて、かたやフリーペーパー。そりゃあみんなタダで情報が手に入るわけだから飛び付くわけですよ。それで食べ物屋さんの広告がすごい取られていった。

その後、風俗専門の情報誌も出てきて。飲食店も風俗店もごった煮状態のすすきの全部を紹介するのが『すきタン』だったけど、それぞれの専門誌が出てきて広告出稿するお店もそれぞれに流れたんです。

―業種に特化したフリーペーパーや情報誌の出現がタウン誌のライバルになっていった…

平野:携帯電話が1人1台の時代になって、周りのタウン誌が次々と休刊になる中で、『すきタン』の在り方も変えざるを得なくなった。その後、コンビニが風俗店の情報を載せた雑誌は店頭に置かないって流れになっていくんだけど、会社としてはコンビニの売上が大きかったのと、個人的にはすすきのって街が大好きだったので、風俗店の情報は無くして今までと違う切り口で、お客さんが買いたいって思えるものを考えようと。

その時、私は編集長を部下に譲って、自分自身は「すすきのを卒業して、次の新しい切り口を探そう」と考え始めたんです。


48歳で“高齢出産”したO.tone』を通して伝えたいこと

―そこから『O.tone(オトン)』を構想しはじめるんですね。当時、どのようなインスピレーションがあったんですか?

平野: 2004〜2005年頃、メンズファッション誌『LEON(レオン)』が提案したちょいワルオヤジがブームになって、大人向けマーケットが注目され始めた。その時に感じたのは、ネットが台頭しているのに「大人はまだ本を買うんだな」って。

私は若い頃から、おやぢたちに揉まれて育った。脇は甘いけれど背中は甘くなくて、仕事はきっちりやる。そんな愛すべき札幌のおやぢたちをナビゲーターにした本をつくろうと思ったんです。

以下、株式会社あるた出版 公式サイトより引用

大切なことは皆、彼らから教えられた。
仕事、礼儀、信義、覚悟、責任、いい加減さ、遊び、酒の飲み方などなど、私が大人になる過程で重要な存在だった。もちろん、反面教師としてもー。
脇が甘くても、決して背中は甘くない。
彼らは概ね魅力的だ。そんな愛すべき男たちを私は「おやぢ」と呼んでいる。

「大人に向けた雑誌を創りたい!」と思い立ってから1年ほどの構想の末、2006年10月5日に生まれたのが『O.tone(オトン)』だ。

『O.tone(オトン)』は、おやぢ世代(40~60代)からの情報を元に構成される「札幌を楽しむための情報誌」である。「もっと札幌生活をエンジョイしよう!どんどん街に繰り出そう!」をキーコンセプトに、実用的で多彩な編集コンテンツをお届けしようと思う。

発行・編集人/平野たまみ

平野:立ち上げ時は社内のスタッフは使わずに、外部の信頼できる編集者とブレストを重ねながらイメージを膨らませてコンセプトを決めていった。デザインも社外に依頼して、体裁はとにかくかっこよく、でも中身は意外と泥臭い本にしたいと。

メインとなる特集は飲食店だけど、単なるグルメ情報じゃなく、お寿司屋さんや焼き鳥屋さんのカウンターを舞台にして、そこは人と人とのコミュニケーションが生まれる場だってことを伝える雑誌にしようと決めました。それに飲食情報だけじゃなく、おやぢたちのライフスタイルもコンテンツに取り入れて。

―確かに『O.tone』ってお店を紹介するだけじゃない。必ず“人が立って”ますね。

平野:取材対象も情報提供もおやぢたちに登場してもらって、徹底して誰がいいお店だって言ってるのかを明確にする。散々投資も失敗もしてきた彼らの“確かなクチコミ”を誌面にするって感じですね。そこにおやぢたちのパーソナリティというか…人となりをプラスして。

―そして2006年10月に創刊、1号目の特集は寿司屋で在庫がなくなるほどの大ヒットだったそうですね。

平野:スタートのすきタン』は自分が立ち上げたものじゃないので、最後にもう1冊出すなら何か?と一から考えて形にできたのが『O.tone』。当時私は48歳で、ずいぶんと“高齢出産”になっちゃった(笑)。

出だしが好調だったとはいえ、創刊当初は季刊誌で制作はほぼ外注だったから、『O.tone』だけでは会社が立ちゆかない。スタッフもたくさん抱えていたし。1年目は季刊、2年目から隔月、3年目には月刊誌にするって事業計画で、じゃあ『すきタン』はどうしようか?と考えるわけだけど、2008年に『O.tone』を隔月にするタイミングで『すきタン』を休刊にしました。

その後、3年目に突入する時に月刊化はせずに、新たに『O.can(オキャン)』って女性誌を立ち上げた。『O.tone』は偶数月、『O.can』は奇数月発行ってかたちにしたんです。私自身、女性誌をつくるのが初めてで、働く40代の女性たちってどんなことを考えてるんだろう?って趣味とかライフスタイルとかリサーチしながら。

―『O.tone』が順調だったのに既定路線ではなく、チャレンジをしたわけですね。

平野:でも、いろいろやっていくうちに、わかんなくなってきちゃって(笑)。自分でも『O.tone』とどこが違うんだろうって。ターゲット層の女性たちからも『O.tone』の方が面白いって言われるし…。結局、酒場が好きな女性たちはそうだよなって。それで、『O.can』は丸2年でやめました。

その後、『O.tone』を月刊にして、会社としてメイン媒体はこれ1本に。他は年間誌やガイド本の制作だったり、社史とかのいろいろな編集業務を請け負う形にシフトしていった。


テレビでおなじみの吉田類さんが北海道を巡る大人の旅ガイド「旅人類」は2015年から2017年まで3回の発行に携わった

2010年代に入るとウェブメディアからSNS隆盛の時代になって、今やSNSのプラットフォームを使ったメディアもあったりして。一方で紙媒体は保存しておきたい所有欲みたいなところになってきてますよね。

平野:『O.tone』はコミュニティメディアでありターゲティングメディアだから、部数とか何十万人に見られてるとかって部分じゃなくて、買ってくれた人がずっと手元に置いておきたいって思う雑誌であって欲しい。

だから、あえて「月号」という表記をせず、「Vol.」という通し番号にしているんです。何月号と書かれていると、月が過ぎたら古く感じて捨てられてしまうだろうから。

経営者と編集長、ふたつの視点

―続いて、経営者であり編集者であることについてお聞きします。経営者として会社を守ること、編集長として企画やクリエイティブを考えることって、どこかではつながりつつも、やはり違うと思うんですが。

平野:全然違いますね。そりゃあ、できるなら編集だけやっていられたら、どんなにいいか(笑)。コロナ禍の時は本当にもう無理かも?と思ったけど、コロナは不可抗力だし、社員の生活もあるわけで。

ただ、コロナ禍の時も『O.tone』は1号も休まずに出し続けられた。1回だけ総集編的な号にしたけど、それは物理的に取材ができなかったので。

―編集の面はどうでしょう?表紙が毎回すてきでインパクトありますよね。あとはキャッチコピーもいいです!

平野:うちは編集スタッフ4人が持ち回りで特集ヘッドを担当するんです。ここ数年、なんでもわたしが決めるのはやめようと思っていて。表紙は雑誌の顔だから大事だけど、よっぽど違うなと感じるものじゃなければ誌面構成と併せて企画書をチェックしながら、担当がどう考えたのか?に耳を傾けるようにして、全体的な監修をしてる感じかな。全ページ最終校正は必ずしていますが。


『O.tone』直近3号 どれも目をひく写真とキャッチコピー


平野さんが久々にゼロから編集したというアトリエテンマ代表・長谷川演 著「さけのみの宇宙」(2025年11月15日発行)

アトリエテンマ:代表・長谷川演を中心に店舗設計やマンションリノベーション、インテリアデザインなどを行う会社

―『O.tone』は今年で創刊20年を迎えますが、これまで読者の支持を得られ続けてきた秘訣はなんだとお考えですか?

平野: 正直わからない(笑)。20年間ずっと同じ読者に支持され続けているわけではないと思います。読者も入れ替わっているでしょう。創刊当時、20歳だった人が40歳で“オトン世代”になっているわけですから。

ただ、私たちが目指しているのは「手抜きをせず丁寧につくる」。アポを取って情報を集めて、カメラマンを連れて実際にお店に足を運んで、お店の空気感、店主の人柄を肌で感じて取材する。確かにコストはかかるけれど、その一連の当たり前を丁寧にやらなければ、雑誌をつくる意味がなくなっちゃう。

ネット上で無料で情報を得られるのが当たり前な時代に買っていただくものなので、これだったら自分も買いたいと思うよなってことを常に意識しています。

『O.tone』は「街の町内会報」であり、酒場は「学校」である

―平野さんにとって、雑誌というメディア、酒場という空間はどのような存在ですか。

平野: 私は『O.tone』のことを、ある側面から見れば“この街の町内会報”だと思っている。「知り合いの◯◯さんが出てた」「あの人にはこんな素敵な趣味があったんだ!」という風に、読者と街のひとがつながるメディア。実際に「誌面に載ったのを見て、昔の友人から久しぶりに連絡がきた」という話をよく聞きます。

そして、盛り場(酒場)は私にとって「学校」です。そこで交わされる会話からいろいろなところにつながったり、生まれるって実体験がこれまでにもたくさんあるから。あなたとも酒場で偶然隣り合わせたのが縁で、今回の取材になったでしょ(笑)

変わりゆく札幌の景観への危機感―場末の路地文化を残してほしい

―最後に、長年札幌の街を見続けてきた平野さんから見て、今の札幌の街並みの変化はどう映っていますか。

平野:うーん、実はものすごい危機感をもっていて。札幌の中心部には次々と新しいビルが建っているけど、家賃の問題もあってテナントで入るのは全国チェーンや大手のお店が多い。これじゃあ日本のどこに行っても同じ顔をした、金太郎飴のような街になってしまって面白くもなんともなくなってしまう。

メインストリートはしょうがないにしても、札幌の中心部で街の風情が残るのは、もはや狸小路や、すすきのの中小路くらいになってしまうんじゃないかって危惧しています。だからこそ、円山や北24条・琴似・平岸・新札幌などといった地域にある路地や商店街の文化はなんとか守ってほしい。

私は場末が大好きなんです。路地の文化がまるっきり無くなってしまうのは本当に悲しい。これは私の切なる願いですね。



PROFILE|プロフィール



平野 たまみ|株式会社あるた出版 代表取締役/『O.tone』編集長

1980年代より札幌のタウン情報誌の編集に携わり、『すすきのタウン情報』の黄金期を支える。2006年、40代以上の大人をターゲットにした情報誌『O.tone』を創刊。2026年、同誌は創刊20周年を迎える。


編集後記|取材を終えて


インタビューにもある通り、僕が平野さんと初めて会ったのは、たまに行く場末の焼き鳥屋だった。ほんの2ヶ月ほど前のことだ。もちろん、こちらは存じ上げていて、その気さくな人柄ゆえ、もっと話を聞きたくなって、数日後には企画書をつくり不躾にもメールを送った。

「文化的な側面から北海道に寄与しているひとや、新しい流れをつくっているひとたちの熱量や哲学を可視化すること」をコンセプトに掲げた企画にはすでに数名の候補がいたものの、ウェブメディアに携わる僕が、長年にわたり雑誌づくりを生業としてきた方にお話を聞くのが1回目というのは面白いのでは?と考えたのだ。

変わりゆく環境下で、毎月手間暇かけて、すばらしい“町内会報”をつくって売ることが簡単じゃないことは想像に難くない。それを40年以上も実践し続けている平野さんは、「過去なんて全部笑い話にしたらいいのよ」とでも言わんばかりに軽やかにいろんなことをお話してくれた。

インタビュー中、「紙やりたくない?」と聞かれて、僕はその場では言葉を濁したけれど、この編集をしている時に、以前に友人と話していた「2000年代くらいまでの南3条通り界隈の文化って、何か形にして残さなきゃじゃない?」って言葉を思い出した。




『O.tone』は毎月15日発行 2026年6月15日発売のVol.212の特集は「ただいま町中華」


この記事を書いたモウラー

編集部

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