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北海道大学名誉教授 小野有五さんインタビュー

北海道大学名誉教授 小野有五さんインタビュー

北海道東川町では、アイヌ民族をテーマにした映画「カムイのうた」を制作し2023年11月23日から公開しています。MouLa HOKKAIDOでは、映画関係者やアイヌ文化に関わっている方々にお話を伺うプロジェクト「つながる、つづく、カムイの想い」を進行中。今回は、北海道大学名誉教授の小野有五さんに、四半世紀に亘る自身のアイヌの人たちとの関わりについて詳しくお話を聞いてきました。

アイヌ文化との出会い

編集部
先生は中学生の頃から山に深い関心があったとのことですがどのようなところに惹かれたのでしょうか。

小野
最初は、山自体に興味があったというよりは化石採集のために山に入っていたのですが、だんだんのめり込むようになり近場で登山をするようになりました。山に夢中になっているうちに大人になっても毎日山に行ける方法はないものかと考えるようになりまして。笑 普通にサラリーマンをやっていては山に行けるのは休日だけですから、山に行くこと自体を仕事にしようと考え、それで地質学の研究を目指すようになったんです。

編集部
先生は東京のご出身ですが、北海道とのご縁はいつ頃始まったのですか。

小野
東京教育大学一年の頃に、北海道の地質を調査されている先生に師事したのが北海道に関わるようになったきっかけです。その先生は夕張の地質を研究されていたので、私も大学一年生の夏休みに夕張に行き、炭鉱の住宅に泊まり、毎日トロッコに乗って炭鉱に通っていました。鉱口のトンネルの手前でトロッコをおり、そこから山に入り地質を調べるという生活を1ヶ月続けていました。

編集部
1ヶ月?!丸一日山の中にいたんですよね。

小野
丸一日です、30日間毎日です。笑 東京近郊で登っていた山とは違い、やぶを漕ぎ、沢を歩き調査しました。蚊やダニに刺され大変でしたがとても有意義で貴重な体験でした。

編集部
北海道に移住したのは北海道大学に勤め始めた1986年からですか。

小野
大学院時代は、北海道日高山脈の氷河地形とその下流の平野の地形発達の研究調査のために毎年北海道には来ていました。論文を発表した後はしばらく北海道とも縁が切れていたのですが、1986年に北大の環境科学研究科で務めることになり移住しました。

編集部
知里幸恵さんの本を初めて手に取ったのもその頃ですよね。

小野
札幌に移住して間もない頃、札幌駅前通りの書店で偶然『知里幸恵 遺稿 銀のしずく』という本を見つけました。開いてみると『アイヌ神謡集』序とあり、3頁にわたって幸恵さんが書いた序文が載っていました。その文章の力に圧倒されて一気にその魅力に引き込まれたことを今でも鮮明に覚えています。

編集部
その運命的な出会いから先生がアイヌの人たちに関わる活動を始められるまで10年くらい時間が空いていますが、その間は特にアイヌの人たちに関わる活動はやられていなかったのですか。

小野
1997年にいわゆる「アイヌ文化振興法」が制定されたことを受けて、翌年、この法律を実際に実現するための施策を道庁が募集しました。私はアイヌ文化やアイヌ語の専門家ではなかったのですが、地理学者として地名は専門ですので、せめて地名は平等に書くことを提案しました。当時「北海道の森と川を語る会」の代表をやっていたので、その会の中で集会を開いてアピールをしていたら、アイヌ民族運動家の小川隆吉エカシ(長老)と出会い、初めて会ったのに、とても良いことだと賛成してくれたのです。それがきっかけでアイヌの人たちと知り合うようになりました。そんな中、改めて知里幸恵さんの本を読み直した時に、1903年生まれということは、あと5年で生誕100年目を迎えることに気づきました。

編集部
1998年からアイヌの人たちの交流が始まり、そこから5年後に生誕100年目を迎える。何かご縁を感じるタイミングですね。

小野
そうです。その時にこのままでは生誕百年をどれだけの人が祝ってくれるだろうか、そして百周年が過ぎたらまた忘れられてしまうのではないかと感じ、それは絶対にいやだ!と強く思ったのです。

知里幸恵記念館設立に向けて

編集部
アイヌ文化との関わりとしてどのようなことから取り組み始めたのですか。

小野
まず登別にある知里幸恵さんのお墓参りに行きました。その時に幸恵さんの姪である横山(知里)むつみさんと出会うことになります。

編集部
登別で知里幸恵さんの回顧展を開催したのもその頃ですか?

小野
そうですね。回顧展「知里幸恵の世界・展」は2000年に開催したのですが、ものすごい反響があって全国から約800人の方に来場いただきました。回顧展がきっかけで、知里幸恵記念館を作りたいという声が高まりました。

編集部
お墓参りに行ってから回顧展まであっという間ですね。先生はいつも行動力が凄いですね。笑


小野
回顧展をやるだけでも結構大変でしたので記念館設立となると時期尚早ではないかと考えていました。お金もなく人もいなかったからです。しかし記念館を作りたいという周囲の熱い思いが高まっていたので、私もついに決意しました。

編集部
記念館を作るにあたり資金はどのように工面されたのですか。

小野
大きな記念館ではなくても、木造2階建ての普通の住宅くらいで良いと考え、建築屋さんに相談したところ3000万円位の見積もりだったので、全国から募金を集めたらどうにかなるのでは?と考えました。

編集部
国や、行政から助成金を受ける方法もあったと思うのですが。

小野
公的な助成金や大企業から大口の寄金を募るのはやめようと思いました。そうではなく、幸恵さんを思う市民の力でつくろうと思ったのです。一人ひとり100円でも1000円でもいいから支援していただき記念館を建てたいと思いました。募金活動を通じて幸恵さんを知ってもらうこともできますし、アイヌの人たちの辛い歴史や現状を一人でも多くの人に知ってもらえる機会が増えるならそのほうが意味があるのではないか?そう考えたのです。

編集部
募金はただの手段であってそれが目的ではないということですよね。素晴らしい考え方だと思います。最近のクラウドファンディングの考え方に近いと思うのですが、それをもう20年以上前から実践されていたのですね。

シレトコ世界自然遺産との関わり

編集部
先生の代表的な活動の一つに「アイヌ・エコツアー」がありますが、エコツアーは昨今ではよく耳にする言葉ですが、当時はまだあまりやっている人はいなかったのでないでしょうか。

小野
当時はまだ耳慣れない言葉だったと思います。最初にシレトコでアイヌ・エコツアーをやりました。

編集部
なぜ、エコツアーをやろうと思ったのですか。

小野
シレトコを「世界自然遺産」に申請するにあたって、政府がアイヌの人たちにまったく相談すらしなかったからです。海外ではありえないことです。当時、環境省は「世界自然遺産地域には、常住するアイヌがいないから、考慮する必要はないと判断した」と弁明しました。しかし世界中の「世界自然遺産地域」を見ても、そこに先住民族が必ずしも常住しているわけではないですし、先住民族から見れば世界自然遺産地域になるような山岳や原生的な自然の残る地域は、もともと「聖地」だったり「神の住む場所」として認識されていました。シレトコのように至る所にアイヌ語地名が残る地域は、かつてはアイヌの人たちが漁や狩猟のために利用していた場所であったことがわかります。ですからアイヌの人たちが今は住んではいないけれど、そこでエコツアーをやっていると示すことで、アイヌの人たちも「世界遺産」の管理に参画するべきだと訴えたのです。

編集部
少なくとも夏の間だけだとしても何か活動していることは明確ですよね。


小野
その地域とアイヌの人たちの結びつきを明確にすることで、世界自然遺産地域の管理にアイヌの人たちが関与するうえで役立つだろうと考え、シレトコでアイヌの人たちとエコツアーを始めることにしました。本来ならかつてのように、アイヌの人たちがシレトコの川で鮭を獲り、自分たちの大事な漁場であることを主張することで世界自然遺産地域の管理に関与できれば良いのですが、現在は法律でアイヌ民族による自由な鮭漁が禁止されています。とりあえず法律で許される範囲で「エコツアー」を実施して、アイヌの人たちがガイドするなかで、アイヌの自然資源の利用や文化を伝えていくというカタチを構想しました。

編集部
エコツアーを学ぶためにニュージーランドにも行かれていますよね。

小野
2004年に初めてアオテアロア(ニュージーランド)に行き、マオリのエコツアーに参加して「先住民族エコツアー」のやり方を学ぶことにしました。できる限りいろいろなマオリエコツアーに参加したのですが、いちばん参考になったのは南島の観光地カイコウラでモーリス・マナワトゥーさんがやられているツアーでした。

編集部
どのような内容だったのですか?

小野
半日のツアーで、参加人数は9名まで。マオリの歴史や文化に触れられ、森の中を歩きマオリの伝統的な植物利用についても学べる内容です。ツアーの最後にモーリスさんのギター伴奏で一緒にマオリ語で歌いました。なんといっても言葉が大事。一時は廃れかけこのまましゃべる人がいなくなるのでは無いかと言われていたマオリ語を復元させることが、現在のマオリの最大の課題だとモーリスさんはおっしゃっていました。

編集部
シレトコエコツアー実現に向けて、とても参考になる貴重な体験をされてきたのですね。

小野
半日のツアーといっても、正味4時間くらいのツアーで、参加費用は当時で一人6,000円程度。9人揃えばまとまった収入になることもわかりました。資本といっても11人乗りのバンが一台あればできるので、アイヌの人たちでも充分やっていけると思いました。帰国後すぐにシレトコでの「アイヌエコツアー」を作る準備を始めました。

先住民サミットで世界に発信

編集部
2008年に『先住民族サミット「アイヌモシㇼ」』がありますが、どのような経緯で先住民族サミットを開催することになったのですか。

小野
同じ年の6月に、国会でアイヌを日本の先住民族とすると決議されました。またその1ヶ月後には北海道で「G8サミット」の開催が控えていたのでこれはアイヌの権利回復を後押しする大きなチャンスだと思いました。このタイミングで「先住民族サミット」をやることで、世界にアイヌの現状と権利回復への要求を発信しようと考えました。アイヌの人たち、とくに若いアイヌの人たちが中心になり、世界から26の先住民族を招いて、先住民族の声を、G8や日本政府に届けることに成功しました。

編集部
先住民族サミットはどこの町で開催されたのですか。

小野
7月1日〜3日の間に3箇所で開催しました。平取町の二風谷で最初のステージをやり、その後に札幌に移動して、まず、アイヌの家(チセ)がある「札幌ピリカコタン」でカムイノミもやり、海外の先住民族からの発表を聞き、みんなからの提案をとりまとめて、最後は札幌コンベンションセンターの大ホールを借り切り、そこで「宣言」を発表し、大きな音楽イベントもやりました。海外からもロイターなどメディアがたくさん来て、先住民族からの提言を世界に発信することができました。

編集部
かなりタイトなスケジュールですが、その分密度の濃い充実したサミットになったのではないでしょうか。

小野
先住民族サミットの全ての行事が終了したのが、最終日の午後10時過ぎ。前夜からほとんど寝ていなかったので少し朦朧としていました。笑 さまざまな失敗もありましたが、最終的にはアイヌの人たちの出した力で、成功を引き寄せられたと思います。年配者も若者もそれぞれ立場や考え方は違っても、このイベントを成功させたい!という思いが、最後には一つになって多くのアイヌをまとめ団結させたと思います。

編集部
先住民族サミットの後に、「WIN-AINU」を設立されましたがどのような目的だったのですか。

小野
先住民族サミットによって、海外の多くの先住民族とつながることができたこと、アイヌの、とくに若者たちが力を発揮できたことで、それを継続するために組織をつくろうということになりました。次のG8サミットは2010年に、カナダで開催されることになり、カナダから来た先住民族のベン・パウレスさんが、またそこで「先住民族サミット」をやりたいと提案したので、2年後に備えるという意味からも一つになった力を組織化しようとみんなが考えた結果でした。

編集部
日本国内での活動が、いよいよ世界へ羽ばたいていく。考えただけで期待感でワクワクしますね。ちなみに「WIN-AINU」の名前にはどのような意味があるのですか?

小野
世界の先住民族とつながるアイヌということで、英語の「World Indigenous peoples' Network Ainu」の頭文字をとり「WIN-AINU」としました。もちろん、勝つ(Win)という意味も含まれています。


著書「新しいアイヌ学」のすすめを手にする小野先生

編集部
先生の著書「新しいアイヌ学」のすすめの中で、WIN-AINUの機関誌「WIN-AINU マウコピㇼカ」の目次が紹介されていましたが、これを見るだけでも、実に精力的に様々な活動をされていたことがわかります。

小野
最初はわずか48ページだったのですが、次号は105ページになり、最終号は128ページになりました。それだけのボリュームにふさわしい活動をしていたと思います。実際の活動期間は約2年間くらいでしたが、まるで弾けるように、これまで抑えられてきた力が外に向かって放たれ、多くのウタㇼを巻き込んで、アイヌと海外の先住民族を、またアイヌ同士をつなぐさまざまな活動が一気に拡散したことがわかります。

アイヌ文化伝承に必要なことは?

編集部
これからアイヌ文化伝承には何が必要だと思いますか。

小野
あくまでもアイヌの人たちが主役なので、私ができることは応援することくらいしかできないですが、ひとつ思うこととして、アイヌ語は昔のことを伝える言葉だと思われがちですが、もっと暮らしに根ざした言葉として一般化することが大切だと思います。

編集部
確かに文献や歴史の中に出てくる言葉ではなく日常で使う言葉になることでより身近な存在になりますね。

小野
例えば、歌をアイヌ語で歌ってみるとか、普段の会話を部分的にアイヌ語で話すように心がけるとか。できるところからで良いので、具体的に取り組んでいけると良いと思います。理想的には小学校から1時間でも良いのでアイヌ語の授業があるといいですよね。同じ日本をつくっている人たちの言葉なんですから。基本的に「言葉」との向き合い方から変えていかないとアイヌ文化は広まらないと思います。

編集部
小野先生は長年に亘り、アイヌの人たちの権利回復のための活動を精力的にやられてきたと思うのですが、その原動力と言いますか、小野先生を突き動かすエネルギーはどこから来るのでしょうか。

小野
やはり知里幸恵さんの力ではないでしょうか。いつも思うのですが、今、知里幸恵さんが生きていたら彼女はどう思うのか?何をしようとするだろうか?ということを考えています。それがアイヌの人たちのことを考える時の僕にとっての基準になっています。彼女の思いを引き継ぐことが、今の時代を生きる人たちの使命だと思いますし、知里幸恵さんが描いていた夢を少しでも実現することが目標なのです。

編集部
知里幸恵さんが思い描いていた未来とは、先生からみてどのような社会だと思いますか。

小野
アイヌも、アイヌでない者も、お互いが心を開いて語り合い平等な社会を作りたい。そしてアイヌ語が話される社会あってほしい、それは知里幸恵さんが19歳で天に召されるまで、つねに彼女の同胞(ウタㇼ)のために祈っていたことだと思います。

編集部
最後にひとつ質問です。先生の書籍『「新しいアイヌ学」のすすめ』(藤原書店)が指す「新しいアイヌ学」とはどのような定義になるのでしょうか?

小野
これまでの「アイヌ学」というのは、和人の研究者がアイヌの人たちやアイヌ文化を単なる「研究対象」にして、あたかも「モノ」のように扱ってきた「学問」なのです。そんなものはもう終わりにしたい。これからは、アイヌの人たちと一緒に、奪われた権利やアイヌ語をとりもどしていく、そのための研究が「新しいアイヌ学」だと思うのです。またアイヌの人たちには、知里幸恵さんをはじめとして、自らを語ってきた長い歴史があるのに、和人のほうは「アイヌ学」と言う「学問」の蔭に身を隠して、自らを語ってこなかったのです。アイヌの人たちは、和人との関わりのなかで差別を受けながらもさまざまに自らを語ってきたのに、和人はアイヌとの関わりのなかで、自分を語ることなく研究対象にした「アイヌ」だけを書いてきたのです。それを繰り返すことはもうやめようと思いました。そういう意味で、この本はアイヌの人たちと関わってきた小野有五と言う一和人の語り(ナラティブ)だとも言えると思います。

編集部
本日はお忙しい中貴重なお話をたくさんありがとうございました。


この記事を書いたモウラー

編集部

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