【vol.4】母校が無くなるその前に
母校の統合、校名の変更
5年ほど前だっただろうか。母校が統合されることを知った。
私が通っていた高知県立高知西高等学校は、人口減少や国際的教育を受けられる学校を作ることを目的に高知南高等学校と統合することになり、2年前に高知国際高等学校となった。当時は高知西高校という名前を残すための署名活動も行われた。それほど母校の名前が消えるというのは寂しいことで私自身も同じ感情を抱いた。
今月の「非効率の向こう側」は、その母校の話を。
2023年1月末。3年ぶりに地元高知県に帰ることになった。
私は週に1度学校訪問をし、学生のリアルな声をラジオから発信しています。その活動の一環として、母校訪問をしたい。そう思った。実は2023年春に卒業する生徒が"最後の高知西高校生"なので、タイミング的には申し分ない。すぐに学校に連絡した。実は数年前から交流はあったので話は進み、学校訪問取材を実施できることになった。
帰省の最大の目的。嬉しくてたまらなかった。
校内に入るのは11年ぶり。バスケ部出身の私が20歳の頃、後輩の元へ試合に行ったとき。恒例の"コート開き"は新年の大切な行事だった。今思えば、10年以上先輩の名前も顔も知らない人たちとバスケをした時は「誰とやっているんだろう」と不思議な気持ちでコートに立っていた。そんなことを思い出しながら校長室へ案内された。
変わらぬ場所、最後の西校生
快く迎えてくれたのは高知西高校最後の校長、廣瀬校長。
とても気さくに校長自身の教師生活の話、私が通っていた当時と今の変化などを話した。先輩に呼び出された自転車置き場、バレンタインの日に当時付き合っていた彼女からチョコ貰えると思って開けた下駄箱、卒業アルバム撮影の時だけ上がれた屋上…変わっていない場所もあったが「大階段」ができていたのが衝撃だった。なんて映えるんだ!俺の時に欲しかった!心からそう思ったが、これも"統合"の産物だと思うと一段一段登る足が重く感じた。
取材に応じてくれたのは2人の"最後の西高生"。男女とも変わらぬ制服。そして"土佐弁"で喋るのが心地いい。東京に4年半、その後、北海道に9年住んでいる私は日常生活で土佐弁を使うことはまずない。不安だったが、私の魂は高知にまだあったらしい。高知龍馬空港に降り立った瞬間に心が戻ったらしい。学生や先生たちとたくさん話した。コロナ禍真っ只中の高校生活は悔しいことも多かったそう。特に行事は中止が多く、最後の1年に何とか文化祭を開催。修学旅行も行く年度を変え、3泊4日から1泊2日に変更して強行。廣瀬校長が『なんとか実現させたい』と尽力したそうです。
人生の中で10代という貴重な時間は人の心を形成する土壌。何を経験し何を想うか。1人は野球部、もう1人は家庭部。そして2人は生徒会に所属し学校と生徒を繋ぐ役目を全うしてきた。自分たちの学校が統合する"最後の卒業生"という肩書きを持つ2人。奇遇にも将来やりたい仕事は2人とも「教師」だった。
高知が好き、良い先生に出会えたから自分もそうなりたい。と語ってくれた。
私はこれまで1万3000人以上の学生に出会ったが「教師」を志す人は多い。面白いのは先述した『良い先生に出会ったから。』という人もいれば、『良い先生に出会わなかったから、自分が良い先生になって同じ思いをする生徒を減らしたい。』という人も多くいること。教育現場は様々な側面で問題を抱えているように思う。私はラジオという側面から学校教育の手助けがしたい。
インタビューに応じてくれた2人は『高校生活最後にラジオで思い出ができました。先輩、ありがとうございました。』と伝えてくれました。「先輩」と呼んでもらえる高校が無くなるのはとても寂しい。けれど、これからも私の母校は「高知西校高等学校」です。明日からも誰かの母校に訪問し、『この学校の生徒でよかった!』と思って貰えるようラジオから発信していきます。
最後に。
毎日昼休みに行っていた学食は1階から3階に場所を移し、大学のカフェテラスのように姿を変えていた。変わっていなかったのは「チキン南蛮弁当」。実は高知では「オーロラソース」をかけて食べるのが主流。学校訪問の後のチキン南蛮は抜群に旨かった!